「橿原神宮文華殿」昨年の限定公開に行きそびれたので、最終日に駆け込み。
織田有楽斎(信長の弟)の子孫の邸宅が奈良の天理にあり、
天保(江戸時代)に建築された藩邸が
昭和の時代に橿原神宮に移築された建物。
小さな藩邸の建物というには立派な屋根。
江戸時代に建てられて、移築される前は小学校として使われ
現在も結婚式などで宴会場として利用出来る生きた建築ですね。
紅葉も最後の見ごろですてきでした。
同時公開として
大正時代に建築された「勅旨館」
と並ぶ「斎館」も外観だけが見れました。
こちらは、神武天皇をお祭りしている橿原神宮らしくいたるところに菊の御門
最寄の「橿原神宮前駅」には、「黄色いポスト」なるものが
駅の反対側にある観光センターでは(場所がわかりにくいー)
ストラップも売ってますよー
1個500円と少し強気
「橿原神宮」
「かしはらの黄色いポスト」
詳しい説明は↓↓
本能寺の変で織田一門は多くの難に殉じ、明智光秀は秀吉に打たれ秀吉の天下天下統一は完成しましたが、覇者は再び織田氏には戻りませんでした。織田氏は次第に衰え、信孝は自刃し、信雄は僅かに五万石を保ったに過ぎない有様でした。信長の弟であり、脚本、柴村両藩の遠祖にあたる長益は、織田一門として同様な運命を辿りました。天象3年(1585)に秀吉に仕えましたが、僅かに摂津国味舌郷3千石を含むに過ぎませんでした。しかし、長益は千利休に師事して茶事の奥義を極め有楽斉と号し、有楽流を創始して棋界の宗匠として仰がれ、秀吉の北野茶会等は大いに活躍しました。
その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康方に味方して石田光成の将 蒲生中守を討ち取った軍功により、大和国武上、山辺二郡の内で2万数千石、都合3万石を拝領して柳本藩もその所領となりました。元和元年(1615)8月12日、1万石を四男長政へ、五男尚長へも1万石を分地し、残る1万石をもって京都建仁寺の正法院にこもり、もっぱら茶の湯にふけり、元和7年(1621)12月13日、73歳で死去しました。
四男長政は芝村藩祖であり、五男尚長は柳本藩祖にあたり、柳本氏の館跡に元和2年(1616)現在の柳本町小学校の地に陣屋を構えるに至ったのです。かくして柳本領は中世の寺院領から大名領となり、小さいながらも城下町として整ってまいりました。しかし、文政13年(1830/天保元年)信陽の時代11月2日に御殿が残らず焼失しましたが、天保7年(1836)から工事は、まず勝手向建物より着手し、同9年(1838)正月頃から大書院の工事にかかり、8年の歳月を費やして天保15年(1844/弘化元年)3月すべての工事を終わり、旧位置に再建旧観に復しました。現存する建物は、文政13年消失後、天保15年3月に至って竣工した藩邸のうち、もっとも主要な部分が今日まで伝えられたものです。明治の廃藩置県後、邸内の外の建物は逐次撤去されましたが、僅かに玄関及び大書院の主要が残され、当時の柳本村民に払い下げられました。